はじめに
近年においてSaaS業界においてはマルチプロダクトの潮流がある。 またコンパウンド戦略というスタートアップ期からマルチプロダクトを見据え、「選択と集中」というスタートアップの常識を覆すような思想さえ登場するほどである。
本記事では、B to B SaaSを前提として、このマルチプロダクトというビジネスモデルは果たして、国内において通用するのかを考えていく。 現時点での筆者の結論から言えば、マルチプロダクトは非常に日本向きの戦略で、すでに実績も十分あがりつつある。その背景をいくつかの視点に絞って分析をした。
エンタープライズ企業における日本の「義理堅さ」の文化へのマッチ
SaaSの成長率を支えるために、重要なのはいかにエンタープライズ企業で契約積めるかどうか、にかかっている。SLG(Sales Led Growth)を標榜する以上は当然のことで、反対に相容れないと思われがちなPLG(Product Led Growth)を軸とした企業においても、GTM戦略を引く場合は、エンタープライズ企業を攻めて行くことになる。
ただ顧客単価が高いというだけではなく、プロダクトがエンタープライズ企業に利用してもらっているという事実は、SaaSにとっても導入実績として営業上の強力な強みとなる。
大企業の情報システム部門の立場から言えば、すでに取引実績のある企業とのやり取りを好むという思想が働くのは当然である。 これは旧態依然と批判をされてしまいがちだが、裏を返せば美徳であり、合理性よりも人徳を大切にするといった東洋の文化論に話に近いものだ。
古い本で恐縮だが、『菊と刀』(ルースベネディクト著 / 光文社古典新訳文庫)によると、
日本では、職業人としての名に対する義理は、非常に厳格である…
さらに『「日本人論」再考』(船曳建夫著 / 講談社学術文庫)によれば、
このタテの関係は、年齢や年次や在籍期間といった能力とは関係のない、外形的条件によって序列化されていて、その序列──『菊と刀』の「ふさわしい位置」──は、きちんと守らなければならない。
情報システム部門といえど、意思決定者は世代としては40-50代に集中しており、全員がITに関する感度は高いとはいえないだろう。その意思決定の過程では、「すでにあの会社に導入されているプロダクトAが好評なので、プロダクトBも良いものに違いない」「プロダクトAの営業が印象に残っているため、きっとあの会社は良いものを作っている」と考える。
これは決して揶揄ではなく、彼らは時間がないなかで、大きな責任を担っているのであり、すでに契約実績のある企業の作るSaaSを選ぶのはひとつ最善と言える。 これまでSIerによって内製されてきたものを、SaaSが置き換えつつあるなかで、 SaaSの浸透はまだまだ過渡期といえるなかでの意思決定にもなる。
SaaS企業からの視点からしても、既存顧客に対するクロスセルにつながる機会を得やすい、硬く言えば、CACを下げることにつながってくる。 すでに利用しているプロダクトの信頼貯金をもって、新たなプロダクトのセールスやマーケティングに繋ぐ正の連鎖を作り上げることができる。
結局はいわゆる「コネ」や「根回し」がマルチプロダクトにおいては活きてくるのである。ABM(Account Based Marketing)という言葉があるほど、エンタープライズ企業の攻略には戦略性が必要なのである。
典型的な日本人論に論理を持っていってしまった。別視点からも考えていこう。
日本の労働人口によるTAM(獲得可能市場規模)が小さい
英語圏のグローバルSaaSプロダクトと比較しても、日本語を主とするプロダクトのターゲットは、そもそもTAM(獲得可能市場規模)が小さくなる傾向がある。
Horizontal SaaSだとしても、その限界は国内の労働人口を上限としてしまうし、あまつさえVertical SaaSであれば、よりその傾向は顕著になる。しかもマクロ的にも日本の労働人口は減るのである。
出典: https://www.mhlw.go.jp/content/000988388.pdf
単一プロダクトでの顧客数を増やすことが難しければ、複数プロダクトのクロスセルを通した顧客単価を上げていくというスタイルを取る必然性が生まれてくる。
SaaS企業が高い成長率を維持するためには、マルチプロダクトに舵を切らないといけないのである。 グローバルに舵を取るという戦略は別軸であるものの、現在までのところ、日本からグローバルSaaSが登場する兆しは見えていない。各社どこも標榜しているであろうが。
反対に中国のプロダクトは国内を対象としていれば、それで十分な成長余白が存在するという点と比較すると、やはり労働人口が減少する日本においてはその差は顕著に感じられると思う。
ソフトウェアのコピー容易性と日本の独自ロジックによるコピー困難性
まずは一般論から。
筆者はソフトウェアエンジニアだが、B to B SaaSのソフトウェアのいわゆるバックエンドの仕組みは、新規プロダクトにおいても、かなりの部分を転用できるという感覚がある。 コードそのものを引き継ぐことは技術的負債を持ち込むことに繋がるため、エンジニアは嫌がるかもしれないが、運用実績のある実装をベースにできる点は負担が大きく減る。
当然ながら、画面やデザインといったフロントエンドは作り直す必要はある。しかし根幹となる裏側の技術を既存のソフトウェア資産を元にできるところは、SaaSのマルチプロダクトにおけるメリットの一つになる。
そして日本の話に戻せば、いわゆる日本の商習慣に依存したプロダクトである場合が多く、その固有のロジックを所持している可能性は高い。 これほどOSSが普及する世の中になったとしても、日本語や日本の文化の壁はとても大きい。
より詳しく言えば、ひらがなカナ変換、祝日判定、Shift_JISバイトなどの固有ロジックや運用ノウハウは、企業が独自で作り上げていることも多く、公開されていない秘伝のタレだったりするものだと思う。こういったものを既存の実績あるプロダクトから転用できるメリットは甚大である。
これはSaaSというよりもソフトウェア全般に言える話ではあるが、Webアプリケーションを主戦場とするSaaSは、Webブラウザという世界で最も互換性を重視するソフトウェア、またHTTPという堅牢なプロトコルをはじめとした、巨人の肩に相乗りできてしまう点も大きい。 もちろん認証基盤といった横串の基盤作りも必要にはなるし、これらは相当難しいのだが、それはここでは置いておこう。
やや視点を変えて別の例を挙げると、これがゲーム業界だとそうはいかないようだ。たまたま視聴した例だが、あのスマブラのディレクターの桜井さんは、歴代のスマブラ作品において、ハードウェアの進化にともなって、多くのものを作り替えなければいけなかったと語っている。CPUやGPUのマシンの変化、グラフィックの進化、開発メンバーの入れ替えなど…スマブラという伝統あるシリーズでさえも、相当の労力がかかることが伺える。
出典: https://youtu.be/sbhFsiL_bjY?si=AsMq7PrZ2tOXm6qg
国内トップSaaSメガベンチャーがファーストペンギンに
というように上げていったものの、実際の問題としてはどのプロダクトがPMFをするかGTMを達成するかを事前に予測することはできない。だからこそマルチプロダクトは難しい。
しかし、打席に立つ回数を増やすことは、やはりソフトウェアビジネスの得意領域だろう。アジャイルやリーンという考え方がそれらを物語る。またSIerのように足取りが重い組織とは異なり、SaaSの組織ではなおさらだ。
ここまで定性的な話ばかりをメインにしてきたものの、定量的な話も少し交えておこう。まず国内SaaSを前提にすると、マルチプロダクトと言えば、やはりラクス社が真っ先に思い浮かぶ。実際に国内上場SaaSにおいてのトップ企業である。
出典: https://ubv.vc/contents/scaling/report-2023/
ラクスは明確にマルチプロダクトを打ち出しており、ラクスの役員の一員である本松さんのXの投稿からもその様子を伺える。本記事を作成するにあたって大いに参考にさせていただいた。
SaaSにおいて複数商材展開は基本となりつつありますが、複数商材展開についての経営戦略的な意義について少し説明してみようと思います。(主に経営企画の方向けの内容) https://x.com/motomatsu_biz/status/1767090013077188978
また2位には、筆者の古巣でもあるSansanも位置し、マルチプロダクト体制を数年前から強く押し出していた。実際にその成功例のひとつが請求書受領SaaSのBill Oneである。4月11日公表の四半期決算においては、前年度比170%でARR目標の75億まで目前という脅威の伸び率である。
出典: https://ir.corp-sansan.com/ja/ir/news/auto_20240411568878/pdfFile.pdf
数年前に、Sansanの本丸だった名刺管理サービスのPdMの一員だった自分としても、Bill Oneの成長速度は、社内においても目を見張るものがあった。人材、ソフトウェア、インフラ、これまで培ってきた資産を集中投下していた。
PMF/GTMにいたるまでの過程には、電帳法の改正、コロナによるDXの加速というマクロ要因による時代の潮流をつかんだ結果ではあるものの、マルチプロダクトを成功させたゆえ、いまのSansanを年次成長率を支える成長ドライバーになった。
これらの企業の実績を見るに、国内SaaSのトップ企業の成功例を見るに、マルチプロダクトへの動きはますます加速していくであろう。
まとめ
このように日本市場、SaaS、マルチプロダクトという組み合わせの良さは、国内SaaS市場で実績もたまりつつある。現在のMRRにおいてトップ走るSaaS企業がマルチプロダクトを前提にして成長を維持していることからも、その傾向が窺える。 反対に、スタートアップ企業からすれば、すぐにその領域を国内SaaSメガベンチャーが食い尽くす可能性があるという点は、驚異であろう。
LLMなどのイノベーティブな技術によって、新たなSaaSの縮図がどのように変化するか、マルチプロダクトの縮図はどうなっていくのか大変楽しみである。